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【毎月更新!】農業なくして持続可能な社会なし今回のテーマ:SDGs目標11|住み続けられるまちづくりを
目標11の内容は「都市と人間の居住地を包摂的(ほうせつてき)、安全、レジリエントかつ持続可能にする」です。
SDGs目標別アーカイブ
目標1・2・3|目標4|目標5|目標6|目標7|目標8|目標10|目標11|目標12|目標13|目標14・15私が「まちづくり」を勉強したかった訳
母はバリアフリー建築士
「自分でできる」ことが増える家づくり
住まいづくりにおいて、障がいはつまり「個性」です。個性に合わせた住まいづくりをすることで、ヘルパーさんに頼むことなく「自分でできること」が増えます。例えば、キッチンを低くすれば車椅子でも料理ができたり、棚を引き戸にすれば自分で棚から物を出し入れしたりすることができます。また家の外でも、花壇を高くすればしゃがめなくても庭仕事ができたり、花は香りの強いものを植えれば、弱視でも花を育てたりすることもできます。家は「非常に高い買い物」ですから、そこに住む人のニーズに合わせてオーダーメイドにするのは当たり前。母のような専門家が入ることで、特殊なニーズにも応えることができ、家主の「限られた力」を伸ばすことができる訳です。パラリンピックの競技を1つでも観た方ならわかると思いますが、特殊な器具やサポートが必要とはいえ、障がいを持っていてもすごい力を発揮できるのです。
車椅子でも生活しやすい工夫がギッシリ
家の外はバリアだらけ
電動車椅子に乗っている仲の良い友人がいます。普通の車椅子ならまだ大人2人で抱えることも可能なのですが、電動車いすは100キロを超えるので、どうしてもエレベーターがないと移動できません。駅によっては、地方はもちろん、東京でもエレベーターさえないところも未だにあり、まだまだバリアフリーなまちづくりの道のりは先が長いです。
大学で学んだこととドイツ留学へのきっかけ
目も見えない、耳も聞こえない、歩くこともできない、ヘレンケラーのような障がいを持った方の部屋を見せてもらったときのこと。部屋は美しくデコレーションが施され、絵や花が飾ってありました。そこで働くヘルパーさんが言うには、「本人は見えなくても、きっと何かを感じ取ることができるし、周りのヘルパーたちが話題にもできるから、季節ごとに模様替えもするのよ」とのことでした。
日本では、全盲の方の施設は病院並みの白一色なのが当たり前でしたから、その施設の中の様子に身震いするほど感動し、その後の私に大きな影響と夢を与えてくれました。「これが共存なんだ!」と。そして、家づくりは母に任せ、私はまちづくり(都市計画)でバリアフリーを目指したい!と思うようになったのです。
とはいえ、高校まではエスカレーターで進学できたこともあり、バスケや遊びが中心で、じっと机に向かって勉強するのがとても苦手だった私。受験を早々に諦め、「人にも自然にも優しいまちづくり」の仕事を目指して、自己推薦枠で大学に進学。高い学費を出してもらって私立大学に入学しましたが、勉強したい目的がはっきりしていたので、学費分はしっかり勉強したという自負があります!高校までにしっかり遊んでおく、というのは割と大事なのかもしれません(笑)。
バブル時代の都市計画にモヤモヤ
ゼミの課題も、効率性・経済性を重視した「ニュータウン」の計画や駅前再開発、高層マンションのコミュニティづくりなどで、私はもちろん「バリアフリー」という観点から取り組みましたが、卒業するまでモヤモヤ感を持ち続けていました。
結果的に、そのモヤモヤのおかげでドイツの大学院に進学することにしたわけで、ドイツで目の当たりにした「持続可能な社会を目指す姿」が今の私の原点になっているので、大学時代は何も無駄ではなかったと思っています。むしろ、その後結婚することになるパートナーを見つけただけでも、大学に行ったかいはあったと(笑)。
気の遠くなるようなドイツのまちづくりのプロセス
「まちづくり」は基本的に、自治体が主となって土木や建設の専門家が計画をつくります。でもそれだと、実際にそこに住んでいる人の視点や要望がきちんと反映されないよね、ということで、当時のドイツでは、計画づくりの段階から住民も参加するようになっていました。
ドイツは労働者組合が生まれた国でもある通り、市民の声が強い国。ただ、市民の声にあおられてナチス政権が台頭してしまったという過去もあり、過ちを繰り返してはいけない、という意識の高さも感じました。
まちづくりのための重要な仕事とは?
そこで、「住み続けられるまち・むら」の将来像を描くために、ワークショップや住民説明会を何度も開き、とてつもない時間をかけてなるべく多くの住民が納得する計画にしていくための、ファシリテーターやモデレーターという職業が誕生しました。これが今、日本でも耳にする「まちづくりの仕事をしています」という職種なんじゃないかなと、私は思っています。
「まち」じゃなくて「むら」に住んじゃった
多少の心残りはありましたが、南阿蘇という世にも美しい景観の村に引っ越すことへのワクワク感が大きく、私は迷いもせずに東京を離れました。そして村での暮らしが始まったのです。
住み続けられる「むらづくり」を目指して
そんな中、4人の子どもを産んで、農村の人口減少に微力ながら貢献している貴重な(?)立場の私だからこそ、住み続けるむらとは?という問いを立てて考えてみたいと思います。
農家の数が減るより、農村の人口が減ることが問題
農業者数は減っているものの、法人は増えているので、サラリーマンとして農業に従事している人は増えている、と農水省はデータを出しています。でも、農業者の数が減ることよりも、非農家も含めた農村の人口が減っていくのは今のところ手の打ちようがなく、とても心配な状況です。
ちなみに、双子の長男と次男が小学校に入学したときは、新入生が4人で、そのうち2人が我が家の息子!でした。全校生徒が40人弱でアットホームな小学校でしたが、ついに今年の3月で閉校しました。
空き家率が3割を超えると一気に増える、といわれていますが、それと同じで、農村の人口が減ると行政サービスも行き届かなくなり、コミュニティも崩壊するので、人口の減少が一気に加速してしまうように思います。現に、熊本地震で大学のキャンパスを失った南阿蘇村は、観光地である人気のエリアも含めて人口減少に歯止めがかかりません。
10年後、20年後、30年後も住み続けるために
農業体験はもちろんのこと、しめ縄や竹細工のワークショップや食育イベントなど、友人たちやお米を買ってもらっているお客さんや学生さんたちが、「行ってみたい!」と思うようなイベントや仕掛けもたくさん手がけてきました。
ここに住みたい!と思う仲間を増やすこと
私はここが好きで満足している
ただ、「私はここが好きで満足している」と伝えます。これは本心です。今年もまた、4月から20代女子がその言葉にひかれてやって来てくれました。彼女はシェアハウスを近々始めるとのことなので、きっと彼女の仲間も増えていくことでしょう。
義理の祖父母のありがたさ
義祖父母が他界して、菜園や山の手入れが疎かになり、農業+育児で忙し過ぎて、季節を楽しむ暮らしができずにいる今日このごろ。それでも忙しい1日を終えて、子どもたちと一緒に満天の星空を見たり、暑い日は水源や川に遊びに行ったりと、楽しみはたくさんあります。ただ、高校生になると村から出ていく子も多く、それに伴って出費も増えるので、なかなか悠々自適というわけにはいきませんが。
三人寄れば文殊の知恵
三人寄れば文殊の知恵、ということで、人が集まればきっと次のやりたいことが見えてくると思っています。移住してできた仲間たちと3人で、地元のお祭りに出店し、いわゆる「地産地消」の走りのような手作りお菓子を販売したのも今では良い思い出です。
「まちづくりの仕事」にこそ就きませんでしたが、自分たちがこの地に住み続けるためにも、諦めずに人にも自然にも優しい「むらづくり」を目指していくつもりです。
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【毎月更新!】農業なくして持続可能な社会なし家族経営農家の生活を写真と共に紹介♪「ハッピーファミリーファーマーズ日記」
大津 愛梨(おおつ えり)プロフィール
1974年ドイツ生まれ東京育ち。慶応大学環境情報学部卒業後、熊本出身の夫と結婚し、共にミュンヘン工科大学で修士号取得。2003年より夫の郷里である南阿蘇で農業後継者として就農し、有機肥料を使った無農薬・減農薬の米を栽培し、全国の一般家庭に産直販売している。
女性農家を中心としたNPO法人田舎のヒロインズ理事長を務めるほか、里山エナジー株式会社の代表取締役社長、一般社団法人GIAHSライフ阿蘇の理事長などを兼任。日経ウーマンの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」やオーライニッポン「ライフスタイル賞」のほか、2017年には国連の機関(FAO)から「模範農業者賞」を受賞した。農業、農村の価値や魅力について発信を続けている4児の母。
ブログ「o2farm’s blog」